海の京都物語 第81話 明智の娘が越えた丹後の山、味土野の隠れ里|日本酒YUTAKA(豊)

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海の京都物語も、今回でとうとう第81話を迎えました。丹後半島をぐるり巡ってきたこの連載、このところは京丹後市に合併された旧六町を一つひとつ訪ね歩いておりまして、峰山町・大宮町・網野町・丹後町・久美浜町ときて、今日ようやく弥栄町(やさかちょう)の番が回ってまいりました。

弥栄町言うたら、丹後ちりめんの機音(はたおと)が響く谷筋の農村風景を思い浮かべる方も多いかもしれません。せやけど実はこの町の奥深く、金剛童子山のふもとには、歴史の教科書にもちらりと顔を出す「隠れ里」があるんどす。その名も味土野(みどの)。今回はこの静かな山里に残る、ある女性の物語と、その山あいに輝く滝を訪ねてみとうございます。

丹後半島の付け根、標高六百十三メートルの修験の山・金剛童子山の南東麓、標高三百六十メートルほどの高原に開けたこの集落は、冬には二メートル近い雪が積もる豪雪地でもあります。かつては百人を超す人々が暮らしていた時期もあったそうですが、今では戸数もごくわずか。それでも、四百年以上前の出来事が、石碑や地名とともに、今も静かに語り継がれている場所なんです。

🏯 本能寺の変と、山へ送られた奥方

 時は天正十年(1582年)、あの本能寺の変が起こりました。主君・織田信長を討った明智光秀の三女・玉は、一夜にして「逆臣の娘」という立場に置かれてしまわはります。玉の夫は、細川家の若殿・細川忠興。忠興は妻を手にかけることも、離縁することもせず、人目のつかぬ丹後の山奥、味土野へと身重の玉をひっそりと送り届けたと伝わってるんどす。都からこの山里までは、当時の道のりを思えば相当な難路やったことでしょう。

 都から遠く離れたこの山里で、玉はおよそ一年八ヶ月ほど(伝承によっては二年前後とも語られます)隠棲生活を送ったとされます。天正十二年(1584年)三月に幽閉が解かれて大坂の屋敷へ戻るまで、彼女がどのような思いでこの山々を見つめていたのか、今となっては知る由もありません。せやけど、後に洗礼を受けて「ガラシャ」の名で広く知られることになる女性の、人生の大きな転機がこの丹後の山奥にあったことだけは確かどす。都の喧噪から遠く離れ、山々の四季と向き合いながら過ごした歳月は、後の彼女の生き方に少なからず影を落としたのやないかと、この地を訪れると自然に想像が膨らみますなあ。

🌿 女城跡に今も残る碑

 味土野には、玉が暮らしたとされる「女城跡」と、警護の武士たちが控えていたという「男城跡」が今も残っています。女城跡には昭和十一年(1936年)に建てられた「細川忠興夫人隠棲地」の石碑が静かに佇み、当時使われていたと伝わる古井戸の跡や、化粧に用いたという清水の湧く場所も語り継がれているそうです。木々に囲まれたその場所に立つと、四百年余りという時の重みが、静けさとなって肌に伝わってくるように感じられます。

 面白いことに、この隠棲の事実が世に広く知られるようになったのは、随分と後のことやったようです。約百年後の貞享年間(1688年)に記された軍記物『明智軍記』にようやく記述が現れ、さらに百年ほど経った天明年間(1788年)になって、細川家がこの出来事を公式に認めたと伝わっています。三百年以上も前の山里での出来事が、こうして静かに語り継がれてきたんやと思うと、なんや不思議な気持ちになりますなあ。

🌸 疫病を鎮めたと伝わる歌

 味土野には、玉にまつわる心温まる言い伝えも残っています。かつてこの山里で疫病が流行った際、玉が自ら詠んだ歌を里の家々の門口に貼らせたところ、流行がぴたりと収まったという逸話です。史実として確かめる術はありませんが、都から追われるようにやって来た若い奥方が、身重の体でありながら村人たちを気にかけていたと伝わることに、味土野の人々の玉への深い敬愛が滲んでいるように感じます。こうした素朴な言い伝えが、大きな歴史の陰で、今も里の暮らしの中に息づいているところに、味土野という土地の懐の深さを感じますなあ。

💧 山あいに輝く、味土野ガラシャ大滝

 味土野を訪れたなら、ぜひ立ち寄っていただきたいのが「味土野ガラシャ大滝」どす。落差五十から六十メートルという迫力満点の滝で、令和元年(2019年)の春には展望所も整備され、新緑の山あいを轟音とともに流れ落ちる姿を、間近で眺められるようになりました。玉が過ごした山里の名を冠したこの滝は、歴史の物語と丹後の自然の両方を静かに物語っているようです。

 新緑の季節はもちろん、秋には周囲の山肌が見事に紅葉し、滝の白い水しぶきとの対比がまた格別どす。歴史のロマンと、丹後の自然の雄大さと、その両方を一度に味わえる場所として、地元でも大切に守られている景勝地なんです。

📍行っ得メモ

・所在地:京都府京丹後市弥栄町須川(味土野)
・アクセス:京都府道655号「味土野大宮線」経由。離合が難しい狭い山道が続きますので運転はどうぞ慎重に/駐車場は「味土野ガラシャの里駐車場」をご利用ください
・見どころ:女城跡の「細川忠興夫人隠棲地」の碑、味土野ガラシャ大滝(落差50~60メートル、展望所は2019年整備)
・おすすめの季節:新緑がまぶしい春から初夏、山肌が色づく秋がおすすめどす/お問い合わせは京丹後市観光公社(0772-72-6070)まで

山深い集落に人の姿はまばらでも、石碑や滝の音は、四百年以上前にここで過ごした一人の女性の記憶を、今も確かにこの山に留めているように感じます。丹後の歴史は、こうして思いがけない山奥にひっそりと息づいているんどすなあ。

海に開けた宮津・伊根の風景とはまた違う、山懐に抱かれた弥栄町の奥深さを感じていただけましたやろか。丹後半島は海沿いだけやのうて、こうして山ふところにも豊かな物語が眠っております。京丹後市の旅は、まだまだ知られざる物語がぎょうさん眠っているようどす。

ほな、また次回のお話でお会いしましょう。

これからもどうぞよろしくお願いします。

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FAQ
Q. 味土野とはどんな場所ですか?
A. 京都府京丹後市弥栄町須川にある山あいの集落で、標高613メートルの金剛童子山の南東麓に位置します。戦国武将・細川忠興の妻となった玉(後の細川ガラシャ)が、本能寺の変の後に隠棲したと伝わる地です。

Q. 細川ガラシャはなぜ味土野に送られたのですか?
A. 天正10年(1582年)の本能寺の変で、実父・明智光秀が主君の織田信長を討ったため、玉は「逆臣の娘」という立場に置かれました。夫の細川忠興は妻を離縁も手打ちもせず、人目を避けて丹後の山奥・味土野へ送ったと伝えられています。

Q. 味土野には今も見られる史跡がありますか?
A. 玉が暮らしたとされる「女城跡」には、昭和11年(1936年)に建てられた「細川忠興夫人隠棲地」の石碑が残っています。また、警護の武士が控えたという「男城跡」や、当時の井戸の跡なども語り継がれています。

Q. 味土野へはどうやって行けますか?
A. 京都府道655号「味土野大宮線」を利用しますが、離合が難しい狭い山道が続くため運転には注意が必要です。「味土野ガラシャの里駐車場」が利用でき、新緑の春から初夏、紅葉の秋が特におすすめの季節です。

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