海の京都物語 第142話 田辺城籠城戦、古今伝授が幽斎はんを救うたお話どす|日本酒YUTAKA(豊)
先週は明治から続く舞鶴鎮守府の開庁のお話をさせてもろて、海軍の町としての舞鶴の顔をご紹介しましたなあ。今回はぐっと時代を遡って、第101話と第125話でちらっとお名前だけ出さしてもろた細川藤孝(幽斎)はんが、田辺城でほんまに命懸けの籠城戦を戦わはったお話をじっくり語らせてもらいますんえ。
田辺城言うたら第125話で資料館と彰古館のご案内をさせてもろたばっかりどすけど、あの時は「今も残るお城の跡」いう場所のお話に留めて、籠城戦の詳しい中身は別の回でと約束させてもろてましたなあ。今日はその約束通り、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦として田辺城で繰り広げられた、寄せ手一万五千に対してわずか五百の城兵が挑んだ壮絶な籠城戦の物語どす。
🏯関ヶ原前夜、幽斎はんが下した籠城の決断
慶長5年(1600年)7月、徳川家康はんが会津の上杉討伐に出兵しはった隙を突いて、石田三成はんらが挙兵しはりました。田辺城主・細川忠興はんは家康はんに従うて東国へ向こうてはったさかい、城には隠居しはった父・藤孝(幽斎)はんが残ってはったんどす。
大坂では忠興はんの奥方・ガラシャはんが自害しはったいう報せも届いて、幽斎はんはいよいよ覚悟を決めはったんどすなあ。丹後にあった宮津城や峰山城、久美浜城などを自ら焼き払うて、兵力を田辺城一つに集めはったんどす。多くの城に少人数を分けるより、一つに絞って守り抜く方が得策やと判断しはったんどすなあ。
⚔️寄せ手一万五千、籠城わずか五百の攻防
7月19日から20日頃にかけて、福知山城主・小野木重次はんを総大将とする西軍が田辺城を取り囲みました。その数、およそ一万五千。対する幽斎はんの手勢は、息子・幸隆はんや甥の三淵光行はんら将兵に加えて、寺の僧侶や町の人らも交じって、わずか五百ほどやったと伝わってますんどす。
これだけの兵力差がありながら、籠城戦は50日から60日にも及んだと言われてます(資料によって日数の記載に幅があるようどす)。実は寄せ手の中には、若い頃に幽斎はんから和歌の手ほどきを受けた武将らもぎょうさんおって、恩師を本気で攻めるに忍びなかったんやとか。鉄砲の空撃ちで済ませたいう逸話が「谷の空鉄砲」いう名前で今に伝わってますんえ。
📜古今伝授の危機が幽斎はんの命を救うた
幽斎はんは、和歌の奥義中の奥義とされる「古今伝授」の唯一の伝承者やったんどす。八条宮智仁親王はんに古今伝授を授けとる最中で、もし幽斎はんが田辺城で討ち死にしはったら、この大切な学問の系譜が絶えてしまう。それを憂えはった後陽成天皇はんが、ついに勅使を田辺城へ送らはって、講和を命じはったんどすなあ。
両軍とも天皇の勅命には逆らえず、慶長5年9月13日、幽斎はんは田辺城を明け渡さはりました。開城後は、敵将やった前田茂勝はんの丹波亀山城に身を移さはったそうどす。文武両道の教養人やったからこそ、戦の勝ち負けやのうて、学問の力で自らの命と城兵らの命を守り抜かはった。歴史のなかでもほんまに稀有な籠城戦やと思いますんえ。
🎎今に伝わる籠城戦の記憶
この籠城戦の記憶は、今も舞鶴のあちこちに息づいてますんどす。心種園には「細川幽斎公古今伝授遺蹟」と刻まれた石碑が建ってますし、籠城戦で幽斎はんに協力した桂林寺には、幽斎はんから贈られたと伝わる梵鐘や涅槃図が今も伝わってますんえ。
また城下の吉原地区では、籠城戦の折に活躍したいう漁民らの働きを偲んで、「吉原の太刀振」いう伝統芸能が4年に一度、今も受け継がれとるそうどす。うちら舞鶴の人間にとって、細川はんの籠城戦は遠い昔の合戦やのうて、今の暮らしのそこかしこに残る、誇らしい記憶なんどすなあ。
📍行っ得メモ
・心種園:「細川幽斎公古今伝授遺蹟」の石碑が建つ
・桂林寺:幽斎はんから贈られたと伝わる梵鐘・涅槃図を保有(涅槃図は毎年2月15日の涅槃会で公開)
・瑞光寺:幽斎はんが天正10年に建立、山門は田辺城の城門を移築したものと伝わる(通常非公開、山門は見学可)
・JR西舞鶴駅から瑞光寺まで徒歩約15分
わずか五百の城兵が一万五千の大軍を相手に50日以上も持ちこたえて、しかも学問の力で自らの命を守り抜かはった。そないな史実が、うちら舞鶴の人間の心の奥に、静かな誇りとしてずっと残ってるんやなあと、あらためて感じさせられましたわ。
こないな古今伝授の物語を味おうた後には、純米大吟醸YUTAKA(豊)を、ぬる燗にほんの少し届くかどうかくらいの人肌燗、体温より少し低いくらいの温度でいただくのがようお似合いどす。古うから伝わる萩焼のぐい呑みでいただくと、じんわりとした米の旨みと吟醸香がゆっくり喉を通って、幽斎はんが命懸けで守り抜かはった学問と文化の重みを、静かに噛みしめさせてくれる、そんな一献になりますんえ。
ほな、また次回のお楽しみに。
これからもどうぞよろしくお願いします。
FAQ
Q. 田辺城の戦いはいつ起きたんどすか?
A. 慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦として、7月から9月にかけて田辺城で繰り広げられた籠城戦どす。城主やった細川忠興はんが東国へ出陣してはる間、隠居しはった父・幽斎はんが西軍一万五千の大軍を相手に、城を守り抜かはったんどすえ。
Q. 籠城側と寄せ手の兵力はどれくらい?
A. 諸説ありますけど、寄せ手の西軍がおよそ一万五千人やったのに対して、籠城しはった幽斎はんの手勢は、寺の人らや町の人らも交じってわずか五百人ほどやったと伝わってますんどす。圧倒的な差やのに50日以上も持ちこたえはったんどすなあ。
Q. なんで幽斎はんは開城しはったん?
A. 幽斎はんが和歌の奥義「古今伝授」の唯一の伝承者やったからどす。学問の系譜が絶えることを憂えはった後陽成天皇はんが勅使を送らはって講和を命じはって、幽斎はんもその勅命に従うて、慶長5年9月13日に田辺城を明け渡さはったんどすえ。
Q. 籠城戦の記憶は今も残ってますか?
A. はい、心種園の石碑や桂林寺に伝わる梵鐘・涅槃図、吉原地区の伝統芸能「吉原の太刀振」など、舞鶴のあちこちに今も息づいてますんどす。うちら地元の人間にとっては、遠い昔の話やのうて、誇らしい記憶として大事にされてますんえ。
京都 丹後