海の京都物語 第246話 旧宮津藩校礼譲館はんの学びの魂、今も宮津小学校どすえ|日本酒YUTAKA(豊)

•

 「海の京都物語」も、おかげさまで第246話を数えましたなあ。これまで天橋立の絶景やら、宮津の城下町の賑わいやら、丹後にまつわるあれこれをご紹介してきましたが、今回は海の京都の"もう一つの顔"、学びの歴史にスポットを当ててみとうなりました。

 宮津言うたら城下町。武士の子らが通うた藩校があったことは、意外と知られてへんのんと違いますやろか。今日は、その藩校の跡地を、一緒にたずねてみまひょ。

📜宮津藩校・礼譲館(れいじょうかん)ってなんどす?

 江戸時代、宮津藩には藩士の子弟を教育する藩校「礼譲館」があったことが分かっとります。礼の心、譲り合いの心を名に込めたんやろか、えらい品のええ名前どすなあ。

 明治2年(1869年)には「文武館」「宮津藩文学所」と名を変え、明治4年(1871年)の廃藩置県で、惜しまれつつも廃校となってしもたんどす。

🏫藩校の跡地に生まれた"宮津校"と"尽道校"

 明治6年(1873年)3月11日、礼譲館の跡地には新たに「宮津校」が開校し、旧宮津藩士や城東村の子弟が通うことになったんどす。士族以外の子らのためには、魚屋町横町の民家を校舎にした「尽道校」も、同じ年に産声をあげましたんや。

 ほんま、時代が大きく変わる中でも、子どもらに学びの場をいう大人たちの思い、変わらんかったんやなあとしみじみしますわ。

🏯宮津城本丸跡を経て、今の宮津小学校へ

 明治17年(1884年)に宮津校は校舎を譲り、翌明治18年(1885年)には旧宮津城の本丸跡地に新しい校舎が完成しましたんどす。そして明治19年(1886年)、宮津校と尽道校が合併して「宮津尋常小学校」が誕生、大正11年(1922年)には全校舎が竣工して、名実ともに一つの学校になったそうどす。

 藩校から始まった学びの場所が、城跡を経て、今の宮津市立宮津小学校(宮津市外側2508)へと受け継がれとる思うと、教室の窓から見える景色も、何や特別に見えてきますなあ。

🚶城下町さんぽで感じる"学びの道"

 宮津小学校の周辺は、かつての宮津城下町の面影を残す通りが続いとります。藩校はんが今の小学校に姿を変えて、なお地域の学びの中心であり続けとるいうのは、えらい粋な話やと思いますわ。

 校舎は現役の小学校どすさかい中には入れしまへんが、外側の通りをゆっくり歩くだけでも、江戸から明治へと移り変わった宮津の息吹を感じられますんや。

📍行っ得メモ

・礼譲館跡地は現在の宮津市立宮津小学校(京都府宮津市外側2508)
・現役の小学校につき校内見学は不可、外観や周辺散策のみ可能どす
・宮津城下町エリアの散策とあわせてたずねるのがおすすめどす

 藩校はんの建物そのものは残っとりまへんが、「学びの場」としての役割は、形を変えながらもずっと受け継がれてきましたんやなあ。そない思うと、何でもない通学路にも、ぐっと深みが出てきますわ。

 そないな藩校の歴史に思いを馳せながら、夜はぬる燗にしたYUTAKAを盃でいただくのがよろしおす。四十度くらいにゆっくり燗をつけると、米の旨みがふわっと広がって、まるで長い時を経て受け継がれてきた学びの心のように、じんわり沁みてくる味わいどす。

ほな、また次回のお楽しみに。

これからもどうぞよろしくお願いします。

大吟醸KYOTO YUTAKAを見る/購入する

FAQ
Q. 礼譲館はどんな学校どしたか?
A. 礼譲館は江戸時代の宮津藩にあった藩校で、藩士の子弟教育が行われとりました。明治2年(1869年)に文武館・宮津藩文学所と改称されましたが、明治4年(1871年)の廃藩置県により廃校となっとります。

Q. 礼譲館の跡地は今どこにありますか?
A. 礼譲館の跡地は、現在の宮津市立宮津小学校(京都府宮津市外側2508)として受け継がれとります。明治6年(1873年)に開校した「宮津校」が旧礼譲館跡に校地を構えたんが、その始まりなんどす。

Q. 宮津校と尽道校とはどんな学校どしたか?
A. 明治6年(1873年)に開校した2つの学校どす。宮津校は旧宮津藩士や城東村の子弟が、尽道校は士族以外の子弟が通いました。明治19年(1886年)に両校は合併し、宮津尋常小学校となったんどす。

Q. YUTAKAはどないな場面で楽しんだらよろしい?
A. 歴史散歩で学びの跡地を訪ねた夜なんかに、ぬる燗にしてゆっくり味わうのがおすすめどす。盃をゆっくり傾けながら、昔の人々の学びへの思いに静かに想いを馳せる、そないなひとときにぴったりの一献どすえ。

0件のコメント
ブログに戻る

コメントを残す

コメントは公開前に承認される必要があることにご注意ください。