海の京都物語 第265話 明智光秀の娘・細川ガラシャはんが嫁いだ宮津城、今も大手川のほとりで静かに祈ってはりますんやで|日本酒YUTAKA(豊)

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 「海の京都物語」も265話を数え、丹後の海辺に眠る物語をひとつずつ紐解いてまいりました。

 今回訪ねますんは、戦国の世にこの宮津で生きた、ある姫君の足跡どす。明智光秀の娘として生まれ、細川家に嫁いだ玉子――のちの細川ガラシャはんの物語は、今も宮津の町のあちこちに静かに息づいてますんや。

🌸宮津城へ嫁いだ姫、玉子はんの日々

 天正8年(1580年)、細川忠興・玉子夫妻は丹後入国に伴い宮津へ移り住みましたんや。翌天正9年(1581年)には父・明智光秀が宮津城を訪れ、親子水入らずのひとときを過ごしたと伝わってます。

 大手川のほとりに立つと、戦乱の世にもこの地で穏やかな日々があったことが偲ばれますわ。

⚔️本能寺の変と、首塚に込められた縁

 天正10年(1582年)、本能寺の変で父・光秀は信長に反旗を翻し、まもなく山崎の合戦で敗死。その首が玉子はんのもとへ届けられ、盛林寺に葬られたと伝わってますんどす。

 盛林寺は天正5年(1577年)の創建で、貞享2年(1685年)に現在の宮津市喜多の地へ移った古刹どす。境内裏山の宝篋印塔には、光秀の法名と命日が静かに刻まれてますんえ。

🕊️大手川のほとりに立つ、ガラシャ夫人像

 平成25年(2013年)、生誕450年を記念して大手川ふれあい広場に建立されたんが「細川ガラシャ夫人像」どす。川向こうにかつてあった宮津城を見つめ、細川家と宮津の人々の幸せをいつまでも祈る姿を表してるそうどす。

 カトリック宮津教会のすぐそばに立つその横顔は、波乱の生涯を生きた姫君の、静かな祈りそのものに見えますんや。

🏯宮津城の名残、太鼓門をたずねて

 細川藤孝が丹後経営の拠点として築いた宮津城も、今は市街地に埋もれ、遺構は石垣と太鼓門のみどす。太鼓門は平成22年(2010年)、宮津小学校の裏門から正門へ移築され、今も現役の校門どす。

 かつての海城の面影をしのびながら歩く宮津の町は、知れば知るほど奥が深うおすなぁ。

📍行っ得メモ

・細川ガラシャ夫人像:宮津市鶴賀、大手川ふれあい広場(カトリック宮津教会隣接) ・盛林寺:宮津市喜多地区、明智光秀の首塚と伝わる宝篋印塔あり ・宮津城太鼓門:宮津市立宮津小学校の正門として現存(校内のため見学は外観のみ・要事前確認)

 戦国の世を懸命に生きた玉子はんの姿は、今も宮津の風景のなかにそっと息づいてますんや。大手川のせせらぎを聞きながらその足跡をたどると、何百年もの時を超えて、ふと心が静かになる気がしますわ。

 そんな物語に思いを馳せながら、今宵は純米大吟醸YUTAKAをぬる燗でいただくのはいかがどすやろ。信楽焼のぐい呑みに注ぐと、米の旨みがじんわり広がり、玉子はんの祈りに寄り添うような穏やかなひとときになりますんえ。

ほな、また次回のお楽しみに。

これからもどうぞよろしくお願いします。

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FAQ
Q. 細川ガラシャはんは宮津とどんな関わりが?
A. 明智光秀の娘・玉子として生まれ、天正8年(1580年)に夫・細川忠興とともに宮津へ移り住みましたんや。翌年には父・光秀も宮津城を訪れたと伝わり、のちに波乱の生涯を送る姫君の、穏やかな日々がこの地にあったんどす。

Q. 盛林寺の首塚にはどんな伝承が?
A. 天正10年(1582年)の本能寺の変後、山崎の合戦で敗れた明智光秀の首が、宮津にいた娘・玉子のもとへ届けられ、盛林寺に葬られたと伝わってます。境内裏山の宝篋印塔には、光秀の法名と命日が今も静かに刻まれてますんや。

Q. ガラシャ夫人像はいつ、どこに建てられた?
A. 平成25年(2013年)、生誕450年を記念して大手川ふれあい広場に建立されました。かつての宮津城があった方角を見つめ、細川家と宮津の人々の幸せを祈る姿を表しているそうどす。カトリック宮津教会のすぐそばに立ってますんえ。

Q. この物語を思いながら飲むのに合う酒器は?
A. ぬる燗にした純米大吟醸YUTAKAを、信楽焼のぐい呑みで静かに味わうのがおすすめどす。米の旨みがじんわりと広がる口当たりは、波乱の世を生きた姫君の物語に、そっと寄り添うようなひとときを演出してくれますんえ。

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