海の京都物語 第206話 「二度と行こまい」言われた宮津港、城下町に息づく粋と宮津節の節回しに、ほろ酔い気分の町歩きどすえ|日本酒YUTAKA(豊)
海の京都物語も第206話を数えましたなぁ。これまで天橋立や伊根の舟屋、丹後の海と暮らしをめぐってまいりましたけど、今回は宮津の町なかへ足を向けてみますえ。
宮津いうたら天橋立の玄関口として知られてますけど、実は江戸時代から続く城下町であり、港町として花街文化が花開いた土地でもあるんどす。今日はそんな宮津の「唄」と「町並み」を訪ねてみますわ。
🎵 二度と行こまい、宮津節に込められた哀歌
宮津節は京都府の民謡で、宮津港がにぎわった江戸時代、元禄期(1688〜1704年)頃から花柳界で歌われたお座敷唄と伝わっとります。冒頭の「二度と行こまい丹後の宮津 縞の財布が空になる」いう歌い出しは、遊廓で散財した船乗りや商人はんらが、泣き言を言いながら旅立っていく様子を歌うたもんどすえ。
各節には「丹後の宮津でピンと出した」いう独特の囃子詞が付くのも宮津節の特徴どす。江戸末期には船乗りや旅人を通じて全国の花柳界に広まったと言われてますんや。
夜の宮津港に、三味線の音とともにこの唄が流れとった様子を思い浮かべると、当時の繁栄ぶりがしのばれますなぁ。船が着くたび、財布のひもがゆるんでしもたお客はんらの顔も見えてくるようどすわ。
🏯 細川藤孝はんが築いた海城、宮津城
宮津城は織田信長から丹後を拝領した細川藤孝(長岡藤孝)はんが築いた城どす。築城には明智光秀はんも深う関わり、信長が「光秀とよう相談して丈夫に造るように」と指示したと伝わっとります。本丸が海に直接面する「海城」で、当時としては最先端の水軍拠点やったそうどすえ。
この築城により、それまで丹後の中心地やった府中から中心が宮津へ移り、近世都市・宮津の出発点になったんどす。せやけど慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦時には、藤孝の父・幽斎が城を焼き払うたという経緯もあります。
海に面した本丸跡に立つと、かつて水軍の船がずらりと並んだ光景が目に浮かぶようどす。今は静かな港ですけど、戦国の緊張感が確かにこの地にあったんやなぁと感じ入りますわ。
🏘️ 寺町に残る城下町の面影
その後、京極高知・高広親子の治世で宮津は急速に発展し、政治・経済の中心地として、また天橋立参詣の拠点としても栄えたそうどす。人口増加にともなう市街地拡大は、砂礫による埋め立てで実現されたと伝わっとります。
城下町の一部やった寺町には、元和年間(1615〜24年)創建の佛性寺、慶長11年創建で徳川秀忠・家光の供養塔を安置する大頂寺など、今も複数の寺院が残っとります。西河原通りや万町通り、魚屋町通りいった通りの名にも、当時の町割りの名残がありますんや。
金屋谷の寺町を歩くと、白壁と格子戸の町家が並び、城下町らしいしっとりした風情が漂うてます。秋には「和火(わか)」いうライトアップも行われて、昼とはまた違う顔を見せてくれるそうどすえ。
🎶 宮津おどりへ受け継がれる唄と粋
宮津節は今、市の無形民俗文化財「宮津おどり」の一部として受け継がれとります。1956年、豊橋市での祭り出演の際に持ち時間が短こうて、宮津節・宮津盆おどり松坂・あいやえおどりの3曲を組み合わせたんが始まりやそうどす。2018年には市の無形民俗文化財に指定されましたんえ。
宮津おどり振興会では踊り手だけやのうて、地方(伴奏者)の育成にも力を入れてはります。複数の調子を持つ3曲を切り替えるには高度な技術が必要で、後継者づくりが今も続いとるんどす。
夏の盆踊りで市民総踊りとして踊られる宮津節を思うと、江戸時代の花街の哀歌が、形を変えて今もこの町の夏を彩ってることに、なんや胸が熱うなりますなぁ。
📍行っ得メモ
・寺町(金屋谷)へは宮津駅から徒歩約15分どす
・佛性寺、大頂寺など寺町の寺院は外観見学が中心で、拝観時間は事前に要確認どすえ
・宮津おどりの披露日程は宮津市や宮津市観光協会の最新情報を要確認どす
二度と行こまいと歌われながらも、こうして今も語り継がれる宮津節。そこには花街の哀愁だけやのうて、この町がどれだけにぎわい、栄えてきたかいう誇りも詰まっとるように思えますなぁ。城下町の町並みを歩きながら、そんな唄の背景に思いを馳せるんも、また一興どすえ。
そんな宮津の夜には、純米大吟醸KYOTO YUTAKA(豊)をぬる燗程度に温めて、ちいと厚みのある陶器のぐい呑みでいただくのがよろしおす。花街の唄が似合う、まろやかで奥行きのある米の甘みがじんわり広がって、遊廓で交わされたであろう賑やかな宴の気配を、静かに想像させてくれますんえ。
ほな、また次回のお楽しみに。
これからもどうぞよろしくお願いします。
FAQ
Q. 宮津節てどんな民謡どすか?
A. 宮津節は京都府の民謡で、江戸時代に宮津港の花柳界で生まれたお座敷唄と伝わっとります。「二度と行こまい丹後の宮津 縞の財布が空になる」という歌い出しで知られ、各節に「丹後の宮津でピンと出した」という囃子詞が付くのが特徴どす。江戸末期には全国の花柳界に広まったそうどすえ。
Q. 宮津城下町はいつ頃できたんどす?
A. 宮津城は織田信長から丹後を拝領した細川藤孝はんが、明智光秀はんの協力を得て築いた海城どす。これにより丹後の中心地が府中から宮津へ移り、近世都市・宮津の出発点になりました。その後、京極高知・高広親子の治世で城下町として急速に発展し、政治・経済の中心地、天橋立参詣の拠点として栄えたと伝わっとります。
Q. 寺町にはどんなお寺があるんどす?
A. 寺町には元和年間(1615〜24年)創建の佛性寺や、慶長11年創建で徳川秀忠・家光の供養塔を安置する大頂寺、雲龍図で知られる経王寺、与謝蕪村ゆかりの句碑を持つ見性寺など、複数の寺院が今も残っとります。西河原通りや万町通りいった通り名にも、城下町時代の町割りの名残がありますんや。
Q. 宮津の夜にはどんな飲み方が合いますか?
A. 花街の哀歌が漂う宮津の夜には、純米大吟醸KYOTO YUTAKA(豊)をぬる燗程度に温めて、厚みのある陶器のぐい呑みでいただくのがおすすめどす。まろやかな米の甘みが広がって、かつて宮津港でにぎわった宴の気配を、静かに感じながら味わうひとときになりますえ。
京都 丹後